コヤマケイコってどんな人?
INTRODUCTION

自分で言うのもなんですが、わりと「波乱万丈な人生」を送ってきました。このページでは、長々とこれまでの人生について書いています。

でもそうならざるを得なかった要因が、特に家庭環境のなかで、偶然にも重なってしまったのが原因なんだと、今は思っていますし、誰かを責めるつもりはありません。

今は友人にも恵まれていますし、家族との関係は良好です。でも決して「家族とは仲良しで大好き!」というわけではなく、いい意味で物理的・心理的な距離感を置いています。今の距離感がわたしにとっては人生で一番快適です。そうなるまでの30年間がどのようなものだったのかを、誰か、辛い境遇にある人のための参考資料になればと思い、記しました。

こんなところに、こういう生き方をしてきて、今こう生きている人がいるんだな、と思ってもらえたら嬉しいです。あくまでも1人の大人という参考資料ですので、わたしがどんな人かというのは、読み手の方の受け取り方に任せます。

2020年1月2日 noteにて執筆
2020年12月2日 サイトに掲載するにあたって改稿

久々に自分の文章を読んだら、いくつか誤字を見つけたので修正しました。また、本文中に「両親と和解した」というようなことをうっかり書いていますが、あくまでも現在本当にそうなったのは母親だけで(いろんなことが頻繁にあるので😭)、父親とその他とは今でも心理的に一線を置いています。幸いなことに妹だけは大の仲良しで、しょっちゅう一緒に遊んでいますし、お互いがお互いの理解者になれています。この家族の図はもう変わらない気がしました。諦めも重要だなという境地です。こんなところに書くなって感じかなと思いましたが笑、でも参考資料としては必要なことかなと思い書きました。

2021年11月5日 追記

今は教えることでお金を稼ぐ仕事に就いていますが、実は勉強をまともに始めたのは、高校4年生の夏休みからなんです。しかも英語だけ!わたしは、有名予備校講師陣のようにすごい経歴を持った先生ではなく、私立高校で働くふつうの講師です。ちなみに高4っていうのは、埼玉県にあった川越高校の定時制(4年制の夜の学校)出身だからなんです。

勉強歴でいえば、幼稚園から公文式に通っていました。母親いわく、自分で通いたいと言い始めたらしいですが、自分ではなんで興味を持ったのか、まったく覚えていません。でも公文式の先取り学習のおかげで、小学校4年生くらいまでは成績は良い方でした。先生が教えてない字を書くような子どもだった気もします。

今でも公文式の好きなところは、本がたくさん置いてあるところです。のちのちわたしがアラスカへ行くきっかけとなる本「オーロラの下で」とはここで出会いましたし、そもそも本の世界への入り口となった場所でした。誰かに読書しなさいと言われたことはなく、自然と本に手が伸びた環境だったんですよね。

オーロラの下で 単行本 – 1990/3/1
戸川 幸夫 (著), 森本 晃司 (イラスト)
ISBN978-4-323-01243-8

狼と野生化したそり犬の間に生まれた吹雪は、シベリアの厳しい自然の中でたくましく成長する。しかし、母に犬の本能がよみがえった日、吹雪は狼王の地位をすてて、人間とともに生きることを始める。

こう書くと、なんだか順風満帆なような気がしますが、小学校の高学年あたりから中学時代までイジメられ、その後も成人して大学生になってからも家庭でいろいろ辛い時期を過ごしていました。

小中学生のころは、学校ではクラスメイトから、家では従姉からイジメられてたけど、家族はその事実や私の変化に対し無関心だったのが始まりなのかなぁと思います。本当に無関心なので、従姉にランドセルをボコボコのズタズタにされていようが、コタツのなかで密かにつねられようが、お構いなしでした。(なんで従姉がそんな憂さ晴らしをしていたかは知りませんが、早いうちに父親を亡くしているので、そういうところが原因なのかもしれません)

それどころか、一緒に住むおばあちゃんが当時よく言っていた「あやちゃん(※妹)は……なのに、けいちゃんはどうしてこうなっちゃったんだろうねぇ」というセリフに見て取れるように、わたしよりも出来の良い1つ下の妹と常に比較されていました。だから家にいることもすごく嫌で、どこにも居場所がないと感じる日々でした。

中二病だと揶揄されるかもしれませんが、ずっと「この絶望的な人生の終わり」について考えているくらい、思春期のころは本当に未来は見えませんでした。だから年齢を重ねるごとに勉強への関心は徐々になくなっていき、下の方から数えたほうが早い成績に落ちていきました。

中学校では2年生くらいから自立神経失調症となり、頭痛や吐き気が常にあって、行っても寝てばかりでした。そういう「奇行」もまた、イジメの原因の1つだったと思います。独学スタイルが基本の公文式ではついに数学についていけなくなり、継続10年まであと少しというところで止めました。そして10年継続した妹と、また比較されたものでした。

今思えば原因は明らかで、どう考えてもイジメが原因だったのに、家族は成績低下について文句を言うだけでした。そして泣けば怒られました。このころから、怒鳴り散らす父親と一緒の空間にいるだけで耳鳴りがするようになったんですが、家族は誰も知らないと思います。この症状は大学生になって留学するまで続きました。

今のわたしの特徴の1つに「わりとだいたいのことは笑って流せる」というのがあるんですが、これは長年続いたイジメと家庭での不和が原因だと思っています。学校ではイジメられているという事実を受け入れられず、なにを言われても笑うしかないような状況に居続けざるをえなかったし、家庭では、反発すれば倍以上の勢いで言い返されていたからです。

おかげで今でも、特に男性に対して萎縮してしまう癖があり、あまり怒り返すことが得意ではありません。勤務先の学校で、教師として怒らなければいけないことが多々あり、意図して訓練して、やっと少しできるようになってきました。

そんなわけで当然、高校受験は準備できている状態ではありません。学校に通うこと、そして家にただいることだけで精一杯でした。でも絵を描くことが昔から好きだったので、美大に通うために、画塾とバイトを中心とした生活を送ろうと決意しました。そして、いじめられる生活から脱却したいという気持ちが強く、地元の人が誰もいない、あえて少し離れた定時制高校を選びました。

定時制高校では、友達に恵まれました。40人くらいいたクラスメイトは、現役高校生のほうが少数派で、19歳から60歳くらいのおじいちゃん、おばあちゃんも一緒でした。10代20代の性格は、おとなしい子とヤンキーの両極端でしたが、ヤンキーは少しずつ辞めていなくなってしまい、確か20人程度で卒業しました。どんどん人が減るから、その分残った組は、世代や性格的な距離があっても、少しずつ仲良くなっていきました。わたしはまだこの頃ずっと家族とうまくいっておらず、精神的に落ちている時期でした。自分の居場所は友達だけでした。

定時制ということもあり、遊ぶ時間は学校が終わった夜9時半以降でしたので、夜遊びをして終電で帰るとか、友達の家に泊まるとか、カラオケでオールするとか、そんな生活でした。取締が今よりゆるかったのもあると思いますが、一部の友達は成人していたし、わたしも他の同い年の友達もなぜか全員老け顔だったので笑、注意されたことは一度もなかったですね。こうかくとお前もヤンキーじゃねーか!と思われるかもしれませんが、でもお酒とタバコには手を出してなかったんです。単純に興味なかったんです。今もタバコは吸いません。

生徒のなかにも飲んだり吸ったりしている子はいるんだろうと思います。何歳になっても、嗜好品はやめろと言われてもやめる気が起きないものですよね。節度をもってね、と心のなかで願っています。

進路についてですが、現実には美大も学力が必要です。夜遊びはしていたとしてもテンションの低い時期だったので、学力より先に、わりとすぐに画力に対しての自信がなくなり、美大は諦めてしまいました。自己肯定感がないと、なにを描いてもだめだと感じてしまうんですね。でもそのおかげで、美術の次に意欲があった英語にシフトチェンジすることになりました。他に選択肢がなかったこともありますが!

そういえば、高校2年生くらいかな、ミュージカル テニスの王子様、通称テニミュに出会ったのは…。笑

今はかなり一般化してきましたが、当時オタクは迫害される時代でした。定時制高校は特に、オタクとヤンキーで二極化していたので、この話をすることはできず、インターネットで交流を盛んに持つようになりました。

ネットで知り合った同じテニミュ好きの女の子(富山出身)と、富山のその子の家を経由してから岐阜に遠征したりしました。スカイプで会話はたくさんしてましたよ!そして初めてネットの人に会うってことで、このあたりで化粧とオシャレをし始めました。相手とその友達がギャルだったのもあり、化粧しないとまずい、という危機感があったんです。笑

ちなみにこの子とは今でこそあまり連絡をとっていませんが(SNSは繋がっています!)、社会人になるくらいまではお互いが遠征をして頻繁に会っていました。旅行も何度か一緒にしているくらい仲良しです。だから生徒が「ネットに同じ趣味の同性の友達がいるんだー」という話をしてくれると、いいねいいね!と感じてしまうんです。(ネットに限らず世の中にはもちろん危険な人もいますが、趣味が同じの人と話が盛り上がるって純粋に嬉しいことですよね)

進路関係のほうへ話を戻します。高校3年生くらいからだった気がするんですが、バイトしたお金と親からの支援(いじめなどへの精神的なケアはなくても、お金は出してくれる環境でした)で英会話スクールと着付け教室にも通いました。

当時、小学校英語の動きが始まったばかりだったので、そのままスクールで「小学校英語指導者資格」をとりました。大学入学のときにはもう英語の先生になろうと漠然と思っていて、とにかく留学できる大学で選びました。英検さえ持っていればAO入試で受験できたので、塾で英語をゆるく学んで準2級を取り、高校で国語の先生に小論文の書き方を教えてもらいました。今思えば、この小論文の指導が後の「書くこと」すべてに活きている気がしますね!

着付け教室に関しては、中学校で所属していた家庭科部では浴衣を縫ったくらいもともと浴衣が好きだったので、ほとんど趣味で通いはじめました。留学したときに自国の文化について話せなきゃ!という思いもありましたが、実際に着物についてなにか知識を聞かれるということはなかったですね。笑 それよりも政治とか捕鯨とか宗教とかのディープな議論をよくしました。

着付けはすごいお金がかかるので、だんだんバイト代では間に合わなくなり、師範の資格をとったところでやめました。浴衣や普段着ならいまでも着付けできるので、留学先や遊びにきてくれた海外の友達に着付けたり、生徒に着付けてあげたりと、それなりに役立っています。

大学は、自分でも留学ができるところ、という観点で決めました。定時制高校の英語は多様な年代、そして基本的に低い学力を持つ生徒向けなので、中学校の最初の単元ABCから始まって、単元でいうと高校英語の助動詞+完了形で終わった記憶があります。英語を中心とした進路にするからには、もっと英語を勉強しておかないと!と、個別指導塾に通って英語だけ教わりました。当時はnecessaryが何度出てきてもちゃんと書けなかった、いい思い出です。

英語以外の勉強はすべて捨てたので、AO入試で、英検準2級利用という制度で、東京国際大学に入学しました。これを書いている現在、駅伝で1位を爆走中だと親から連絡が来ました。わたしが在学していたころからスポーツにすごい力(お金)を注いでいたので、結果がともなっていてよかったなぁと感じます。

大学に入ると、英語の授業はレベル別のクラスわけだったんです。定時制出身でしたが、真ん中より少し上に入れました。でもそこで余裕ぶっていたら、次のレベル決めで1つ落ちてしまったんですね。これが、わたしが本気で英語に取り組むことになるきっかけでした。

入学当初はTOEICなんて990点中400点いかない程度しかなかったのですが、その後のガリ勉(人生初のガリ勉です!)と、アメリカとスウェーデンでの1年ずつの留学の甲斐あり(留学のことに関しては、また別途記事にします!)、卒業するころには870点にあがりました。そして、TOIECの試験に変化があったことと、学校に採用してもらうときにTOEICを持っていると好印象であることもあり、2018年に久々に受験しました。夏の受験は前回と大差なくて悔しかったのでTOEIC対策を打ったところ、10月受験で935点でした!

検定試験ってかんたんに自己肯定感が生まれていいですね。数字はかんたんに成長を実感させてくれます。でもTOEICでは測れない多様な技能もちゃんと伸びてる、って今のわたしは胸を張って言えます!

大学に入ってからは留学をするために計画的な単位取得が必要だったので、1年次はフル単でした。しかも着付け教室と英会話教室と並行しながら、ESSという英語のディスカッション・スピーチをする部活に所属したので、バイトをする暇がないくらい忙しかったです。

2年次の2月からアメリカへ語学留学をし、3年の12月に帰国しました。夏ごろにはスウェーデンの大学への教育学部に留学することを心に決めていて、TOEFLの試験を受けていました。アメリカの先生には英作文の添削をかなりたくさんしていただきました。スウェーデン留学に向けて、アメリカにいるのに座学をしまくるという生活でした。親に反対されながらも(金銭的に当たり前ですね)、帰国してからはバイトに明け暮れ、そして奨学金100万円を借りて、4年次の夏にスウェーデンへ旅立ち、5年次の夏に帰国しました。そして5年生で大学を卒業しました。

バイトしまくっていたとはいえ、どえらい金のかかる娘だな、と、書いてて思います。

昔は、金銭的にはゆるく、精神的には厳しい家族のあり方が本当に嫌でした。本当に欲しいのは気持ちだと思って過ごしていました。例えばいじめに対するケアなんですが、それを求める、満足のできないわたしは、家族の中で浮いていて、家族の一員ではないんだと思って、長いあいだ過ごしていました。

でも今は、わたしが人生を持ち直すのにかかったお金は、学校内・家族内でのイジメを無視した分といっていいだろう、と思うことにしているんです。

もちろん金銭的な工面をしてくれたことに対する感謝の気持ちは留学先から手紙にして伝えました。物理的に家族から離れたことで、手紙という手段だったら伝えることができたんですよね。

それでもアメリカ留学から帰るタイミングでは、帰国したくない症候群になりました。現地のカウンセラーに話すと、経験してきたことは「abuse」(虐待)だからと言いました。そこで初めて毒親という言葉を知り、有名な毒親に関する本を原書で読むことになりました。「Toxic Parents」という本です。

Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life – 2009/12/15
Susan Forward, Craig Buck
ASIN : B000SEH80I

In this remarkable self-help guide, Dr. Susan Forward drawn on case histories and the real-life voices of adult children of toxic parents to help you free yourself from the frustrating patterns of your relationship with your parents — and discover an exciting new world of self-confidence, inner strength, and emotional independence.

邦題は「毒になる親」です。おそらく明確には、我が家は毒親ではないのかもしれません。でもカウンセラーが、そういう環境でずっとつらかったね、と言ってくれたことで、一歩踏み出せた気がしました。カウンセリングのあと、ようやく電話で不満をぶちまけることにも繋がりました。電話では、どうしていじめられていたことを無視し続けたのかを問いただしました。従姉が早くに父親を亡くしたから、それに配慮して、などと話してもらいました。納得できたわけではないですが、長かった家族との(少なくとも両親との)諍いに、一段落ついたような気がしました。

スーザン・フォワード (著), 玉置 悟 (翻訳)  – 2013/12/20
ASIN : B00H94MDL4

子供は一生苦しむ。「毒になる親」に傷つけられた子供の心は、歳を重ねても癒されることはない。不安、怒り、過剰な義務感、つきまとう罪悪感……。子供時代に植え付けられた「感情の種」が、大人になったあなたに害を与え続ける。親に奪われた人生を取り戻すために、あたがたそういう親にならないために。

1度目の帰国後、ESS部で、他に人がいないからとスピーチセクションの代表にさせられ、そのおかげで四大大会と言われる大きなスピーチコンテストに(出身大学主催のため主催枠で)出なければならくなりました。そのとき、これまでの腹いせに「毒親」というテーマで英語の7分スピーチをしました。(ちなみに10人中5位でした。笑)

さすがにテーマは伝えませんでしたが、両親はそのスピーチを聞きに来てくれました。すべて英語だからなんの話をしているか理解できていなかったようですが、夜中に酔った勢いで「あんなスピーチをしてごめん」と電話しました。でも少しスッキリしました。冒頭で書いた「絶望的な人生」のおわりはある意味、このときに迎えられたんだと思います。

さらにわたしはスウェーデンへ、2度目の留学をしたことも大きな影響があったと思います。また家族と離れて過ごすことで、少しずつ、自分の心を落ち着かせることができ、そして同時に様々な経験を積むことができました。

こういう経緯を経て、2014年から都内私立高校(非正規雇用に関する法改正のおかげで3年ごとに転々としています)、2018年から自営業しろくまスタディセッションのオンラインプライベートサポートで講師として働いています。

これを編集している現時点で、30歳です。思春期から20代前半は、怒涛の時代だったなと振り返るたびに思います。同時に、よく生きてこられたなと、自分のことを褒めたくなります。15歳の自分が今の自分を見たらびっくりするでしょう。こんなふうに明るく元気に楽しく毎日を遅れるだなんて、夢にも思わなかったんですから。永久に辛い日々が続くと思って生きていた時代でした。

社会人になり、一人暮らしを始めてからは、冒頭にも書いたとおり、家族とはいい距離を保てています。

今でも、家族には、心がうっとなることを言う人はいますが、こちらも我慢と無視ができるくらいには、大人に成長しました。思春期のころは傷ついてすぐ泣いて、「すぐ泣くんだから」「泣けばいいと思ってる」と怒られさらに泣くという悪循環がありましたが、今はもうその場ですぐ泣くことはなくなりました。大人になってからは、辛い場所から逃げることができるようになりました。

今でも、そのころの思い出が突き刺さるとき、少し泣きます。でも小さかった自分を受け止めて、「あのころ本当に辛かったよね」と泣くこと、そして「色んな事情があったにせよ、わたしの家族は小さかったわたしをもっとケアするべきだったよね」と非難することは、必要なステップなんだと感じます。

生徒間でイジメが発覚したら、ぶち怒って、でもある程度論理的に指導して、必要ならわたしの人生の一部を話せるくらいには立ち直ることができました。

今だからこそ言える話で、決して一般化できるものではありませんが、これまでの経験は、生徒と接するうえでとても役に立つんです。

個人の否定をしないで個人の行為を叱る。頭ごなしに叱らないで、事情を尋ねる。個人のつらさを否定しないで認める。こういうことを意識して、英語の授業に挑んでいます。辛かった経験は、生徒とのコミュニケーションに必要な能力を養う肥やしになったのだと思います。

そして現状に満足しすぎず、向上心を持ち続けて過ごせています。個人事業主として、未成年のための学童のような学習空間を作ることを掲げているのは、このような経緯があったからなんです。ただじゃ転ばねえ!という反骨精神が強いんですかね。英語学習のお手伝いはもちろんですが、同時に、誰かのつらいという気持ちを受け止められる場所になれたらと思います。

日々の仕事からも、生徒たちからも、多くのことを学びながら生きています。そんな今の自分の人生が楽しいです。学び続けるなか、成長し続けているなかでの発信ですが、この後も事業の活動を活用して、そしてできれば温かい目で見守っていただけたらうれしいです。

コヤマケイコ (著)- 2013/12/20
ASIN : B07Q1G783G

高校受験の内容、英検3級、準2級、2級、準1級程度の内容を順番に扱います。論理構成と英文法の最低限の基本を学びアウトプットするので、TOEFLやTOEIC Writing、英文メールに取り組もうとしている大学生・社会人のみなさんのお力添えにもなれるかと思います。

この記事は「論理的思考力を鍛える英作文の教科書」内で掲載したエッセイにだいぶ加筆修正を加えております。教科書のほうではスペースの都合上、そして英語があくまでもテーマなのでわたしの人生はいいだろうと、だいぶ端折って書いたのですが、せっかくたくさん書けるスペースがあるので、ありのままを書きました。最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。

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